私は1958年5月に名古屋市北区大曽根で生まれした。今年で65歳になりました。今回は私の生い立ちを話したいと思います。
私は名古屋市北区大曽根の医療法人稲垣病院(後に閉院)で曽祖母は助産師(昔は産婆さんと言ってました)・祖父と父は産婦人科医のもとに長男として生まれました。産婦人科医として3代目に当たります。日本でも3代続く産婦人科医はかなり少ないはずです。次男が産婦人科の医局に究極を決めた時、4代目は日本にいるのかな?と思いましたが、結局、手の整形外科医になると言い出しこれで歴代の産婦人科医は終了してしまいました。ベビーブームにも乗り当時の実家は富裕でした。小学生の時、同級生に稲垣は大曽根六郷学校の中で2番目に金持ちなんだよ.と言われました。
幼少期より3代目の跡取りの期待が大きく将来は医者になると思ってはいたものの学業の方は上の下と言うより中の上くらいで ”ワシは優秀でどこでも大学は入れたが、戦争中で徴兵が嫌で少しでも大学生期間が長い6年制の名古屋大学医学部に入ったんだ。と言う父に”私の通知表(小2)を見せた時”お前は俺の子供では無い!”と言われ酷く心が痛んだ記憶があります。
父の遺伝かも知れませんが、算数と理科はそこそこでしたが、国語・社会はまるでダメ男 家庭教師を小学低学年からつけてもらい何とか父と同じ私立東海中学に入る事が出来ました。男子校でしたが、同じ環境で育った子供達の集団でみんな仲が良く排他的な面も多く集まって騒ぐ評判の悪い集団でしたが、現在も私の殆どの友人は東海高校卒でこれは大先輩の師匠*成田収先生も同じ様な事を言っておられます。小学校の時で中の上くらいの私は名門東海中学・東海高校では当然下の下でした。数学と物理だけはそこそこで当時辞書持ち込可の英語 3教科だけの藤田学園保健衛生大学に何とか入学出来ました。今でも戻れるものならイツに戻りたいかと聞かれれば、辛かった国試勉強の末に医者になれた直後か、楽しかった東海時代です。何とか医学部に入学できたのですが、試練は続きます。
(*成田先生は東海高校→名古屋大学→名古屋大学助教授→有名な成田病院院長→同理事長とエリートの道を歩まれた方です。 来年90歳になられますが、今もお元気で同じく東海高校卒の私の友人と定期的に排他的な食事会を行なっています。) 必ず続きを書きます。
長男・次男も教育ママのお陰で東海に入れた事を妻に感謝しております。